飯でも食いにいかないか

僕はスピードワゴン小沢さんの自己愛傾向の強いキザな部分が好きで、とりわけ「あま〜い!」というコントシリーズは大好きで、なかでも「手料理」と題したコントの甘さは群を抜いていると思う。こんなコントだ。

女「どうだった?わたしの手料理。」
男「まずい。」
女「え?‥‥やだ。ごめんなさい。砂糖と塩、間違えちゃったみたい。」
男「心配しないで。大切なのは、何を食べるかじゃなく、誰と食べるかだから。」
女「あま〜〜い!」

‥‥確かにこいつはあまくないか?そのあと井戸田が「世界一周の旅をしたいと願う引きこもりの夢くらい甘いよ」と言うのも無理は無い。この「手料理」というコントはとても有名なのでご存知の方も多いと思うが、このコントの小沢さんの言葉は意外にも的の中心を深いとこまで射てるように思う。何を食べるかではなく誰と食べるか。この名言には甘いの一言ではさばききれない奥行きがあり、男のデート心理を突き詰めた贅肉の無いソリッドな心の声なんじゃないかとさえ思う。男にとって、好きな女の子と食事に行くとき、どのお店に行くかなんてことはホントにもうどうでもいい問題で、なのに少しでも気の利いたお店に連れて行こうするのは、その女の子がもしかしたら男のチョイスしたお店と男の品質をイコールで捕らえるタイプの女の子かもしれないと危惧しているからだ。初デートで養老乃瀧とか行ったら養老乃瀧がイコールで僕と結びついてしまう恐れがある。仙人じゃないんだからもっとモダンなイメージを獲得したいところだ。特に好きな女の子には。

突き詰めれば、男にとってはお店はどうでもいいのだ。だから、その子と何度か食事を重ね、どの店に連れて行こうかそんな気のわずらいが無くなったとき、男はその女の子を前以上に愛しくなっていることと思う。純化した関係性を築くってそういうことで、誰と食べるかの舞台では、何を食べるかの出る幕はなく、メインディッシュは君なのだ。そういうことなのだ。

そんなわけで、なにはともあれ一緒に食事をしたという事実がとても重要だと思う。恋愛関係以前にそもそも人間関係の構築として、一緒に食事をする、酒を飲む、そんな事実もしくは結果が大切なのだ。例えば、普段仲良くも悪くもないけど偶発的な流れから二人で飲みに行くことになった人には、一緒に飲みにいったという事実が二人の関係をぐっと近づけてくれたりもして、なんだか同じ釜の飯を食った的な親密な気持ちを抱くことが出来る。食事に行ったり飲みに行ったり、その事実を紡ぐことによって人間関係が始まるっていうか、そうしないことには人間関係が始まらない部分ってあると思う。

だがどうだろう、至極恐縮ではあるが個人的な話をさせて頂くと、僕は最近一人暮らしを再開し、日常では一人で食事をするケースが大半である。誰と食べるか迷う余地のないオンリーワンな平日である。会社帰りに近所のスーパーに寄って、絹ごし豆腐とタイムセールで半額になったサーモンの刺身と岩下の新生姜を買って来てはビールで流し込み、食後のおつまみにキャベツ太郎をパクつきながら麦焼酎をウーロン茶で割る、そんな敗北感の滲んだ食生活だ。そして、最近自覚するのだけれど調味料の消費量がびっくりするくらい早い。刺身一切れにワサビ、豆腐一切れにもワサビ、おでんにはカラシ、ピザにはタバスコ、キムチ鍋にはラー油、モツ煮には七味。食事のメインが調味料なんじゃないかというくらいにすぐ使い切ってしまう。でも仕方ないことにワサビや七味なんかに代表される調味料の刺激がたまらなく好きで、その刺激に疲れが癒されるのだ。調味料の刺激に感動するとは、なんとも沸点の低い食生活ではあるが、そうなんだからしょうがない。一人きりで食べる食事で欲しいのは、味じゃない、刺激である。

だが僕は自分を弁解するように言いたい、調味料こそ、まるで人生の醍醐味ではないか。ワサビ、カラシ、ラー油、七味、つまるところ、こいつらのテイストは、ほんに涙を誘うほど刺激的な人生のエッセンスを味覚化したものなのである。ちょうど安部公房が『壁』の中で言っていた、「悲しみはお茶の味を良くするものです。だからきっと僕は悲しかったに違いありません」。なんかよくわかんないけど、そういうことなんだ。

うぉぉぉぉ!

いいいいいyっやああhっひょっおうううう!ハンターハンターが連載再開だって!いいいやhっほおおおううtっつ!10/6の土曜日発売のジャンプから再開だって!しかも!しかも!10/4にはなんと!休載前の全13話が掲載されたコミックが出るって!きたきた!マジきた!これまでのコミック読んで復習だなこりゃ!万全の状態で6日のジャンプに備えないとな!ああ忙しくなってきたよ!なんかやる気出てきたよ俺!富樫が本気出すなら俺も本気出しちゃうよ!頑張っちゃうよ!やっちゃうよ!やっちゃうんだよ!残業とかいっぱいしちゃうよ!飲み過ぎて終電逃しても次の日ちゃんと会社行くよ!もうずる休みとかしないよ!会社行ったらみんなに元気に挨拶しちゃうよ!お昼休みには好きな子に探りのメールとか入れちゃうよ!お弁当も残さず食べちゃうし!人にはなんていうかやさしくしちゃう!金はもちろん俺が払うよ!そんなん俺が言っといてやるよ!全部俺が面倒見てやるよ!
そう、頑張って生きちゃう!

クワイエットルームにようこそ、サイドカーに犬

クワイエットルームにようこそ

クワイエットルームにようこそ

猛スピードで母は (文春文庫)

猛スピードで母は (文春文庫)

最近読んだ小説の中でとても面白かった小説が2つ、映画化されるらしい。一つは松尾スズキの『クワイエットルームにようこそ』で、もう一つは長嶋有の『サイドカーに犬』(小説『猛スピードで母は』に収録)。両の小説とも、たどればどこかで芥川賞に関連した小説であり、松尾スズキの『クワイエット〜』は第134回芥川賞候補作で、長嶋有の『サイドカーに犬』は文学界新人賞だが、この人は表題にもなっている『猛スピードで母は』で第126回芥川賞を受賞している。僕は芥川賞という賞に弱く、小説の帯に芥川賞とか書いてあると、そうでない小説より3割増しで、ちょっと読んでみようかな、と思うのだ。

僕は松尾スズキという人の絵になってしまう外見的キモさが好きで、それはどことなく癖になってしまうビジュアルであり、映画とかドラマを見ていて突然チョイ役で登場されると、なんだかよく分からないヌメヌメした渇きが癒されていくのを感じる。癒されて初めて気づかされる渇きがあって、それを癒してくれるとてもずるいポジションにいるのが俳優としての松尾スズキだと思う。

鼻が詰まった感じの鼻炎っぽい声もセクシーで好きだ。と思っていたら、この前なんかのテレビ番組でやっぱりナレーションをしていた。番組名は忘れちゃったけどドキュメンタリーチックな笑いナシの番組で淡々と普通のナレーションをしていた。いい声してた。そして何より、僕は松尾スズキの書く文章が好きで、小説もエッセイもホント好きだ。この『クワイエットルーム〜』もいいけど、『宗教が往く』も面白くて、初めて『宗教が往く』を読んだときは、松尾スズキって人は小説も凄いんだってビックリしたもので、この人何でも出来るんだって、その才能はもはや僕にとってはちょっとした事件だった。

そんな彼が自作の『クワイエット〜』を監督して映画化するなんて話を聞いたときは、おおマジか!そうくるか!って、嬉しくて、調べてみたらキャストもツボで、でももっと言えば、どうせなら精神病棟の話なんだし、いっそ全員自分の劇団から持ってきてほしかった気もする。全キャスト大人計画で映画化。だって精神病患者って役柄は大人計画の役者さんにとっては真骨頂でしょ。

長嶋有の『サイドカーに犬』は小説として言うことないくらいイイ。何がいいのかよく分からないけど読後感はとてもイイ。夏休み臭がプンプンしてて、なんかいいんだよね。プール帰りに友達とガリガリ君食べてるような、朝のラジオ体操に家族で旅行に行ってしまった友達が今日はいないような、カブトムシの角を持って遊んでたら首がもげて残念なことになってしまったような、汗だくになりながら麦茶飲んでるような、そういう夏の気分が味わえるんだ。ストーリーとか特に無くて、どちらかというとストーリーうんぬんより、設定が良くて、上手に説明できないけどそういうとこが凄くいいんだ。何がいいのか説明できないくらい優れた小説なんだ。

そんな小説が最近になって映画化されると知り、これまた、おおマジか!そうくるか!って、嬉しくて、調べてみたらキャストは優等生の解答用紙のようにちょっと笑えないくらい真面目だった。それはそれでマジで映画化って感じで楽しみだけど、ヨーコさんが竹内結子ってのがもうマジすぎやしないか、もっとキワキワな要素がヨーコさんにあるわけで、個人的なヒイキ目ではあるが、僕はその役を広末涼子にやってほしかった。最近の広末はますますかわいくて、なんかいま広末お茶のCMに出てるでしょ。体から水がプシューってなって空飛んでアーレーみたいなやつ、あれ凄くよくね?

シガテラ

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

何で『シガテラ』かって言うと、この前終電逃して漫画喫茶で、酔い覚ましにちょっと読んでみたんだけど、コレがホント面白かった。あまりに面白くて結局朝6時くらいまでかかって全6巻を読みきってしまった。久々に漫画特有の今すぐ続きが読みたい欲求を覚え、続きがすぐ読める幸せを感じ、ページをめくる時の充実感を味わった。この『シガテラ』はそんな幸せな時間を与えてくれる最高の漫画だった。

この古谷実って人は『稲中』が有名で、僕も中2のころに『稲中』にハマッタくちなんだけど、学生を卒業した今となっては、この『シガテラ』の方が、ストーリーといい、絵柄といい、漫画全体にただよう空気といい、実にしっくりくる。確かに『稲中』の方が楽しいギャグとテンポの良さと勢いがある。でも、この『シガテラ』の、世の中そんないいことばっかじゃないよ、っていう、もの悲しいオーラといい、ダークなキャラクターといい、エッジの効いた残酷なストーリーといい、世界に対して何も期待しないネガティブなメッセージ性には、不思議と安定感があり、僕はなんだか言い尽くせぬ安心感を感じた。

『稲中』がタルタルソースのかかったチーズハンバーグのような漫画だとしたら、この『シガテラ』はネギと生姜を盛り付けためんつゆで頂く厚揚げ豆腐のような漫画で、メインメニューにはない、サイドメニュー独特のワビサビがある。薬味の効いた、大人の味。そして大人の味はどこか悲しい。そんでちょっとエロくてグロイ。大人ってそういうもんだ。

この夏お友達とお気に入りの水着を着て海ではしゃいぢゃうような太陽の似合う人たちにはこの漫画のワビサビは理解できないであろうから、夏なのに心にぽっかりと穴の開いてる人にぜひ読んでもらいたい。心にぽっかり空いたその穴が拡大すること、間違いないが。

燃えよ剣

燃えよ剣(上) (新潮文庫)

燃えよ剣(上) (新潮文庫)

僕の趣味の一つに読書がある。ちゃっかり読書家なのである。

だからといって、例えば会社から帰ってきたらハーブティーを飲みながらロッキンチェアーに腰掛けて読書タイムだわ、などといったスピリチュアルな時間を設けることはアル中体質的に無理であり、会社から帰ってきたらもう狙うは敵将の首ただ一つ、お酒である。ツタヤで借りてきたDVDを見ながら、ラムをコーラで割ってレモンを垂らすことに夢中で、酔っ払ってグダグダになってきたところで布団に入るのが常だから、もうわけがわからなくなった頭では本なんか読んでられないのである。そういうスピリチュアルである(意味不明)。

んじゃいつ本を読むのかというと、平日はいわゆる「ながら」読みである。トイレで用を足しながら。通勤の電車でつり革につかまりながら。おフロに入りながら。そんな「ながら」読みではあるが、なんだかんだで一日のうち合計1時間くらいは本を読む時間があるわけで、週末をカンウントすれば1週間のうち10時間ほど読書できるので、1センチくらいの厚さの文庫だったらちょうど読みきれるスンポーである。

そんでいま読んでる小説が『燃えよ剣』である。ついに司馬遼太郎に手を出すときが来たのである。ここへきてやっと「シバリョー」の地に足を踏み入れたのだ。いつか行こう、いつか行こうとは思っていたが、生まれながらの出不精が災いし、重い腰がなかなか上がらず、ついつい訪問を先延ばしにしていた古都「シバリョー」。しかも、古都「シバリョー」における国宝『燃えよ剣』である。

幕末の日本で、敵からも味方からも最も恐れられたのがこの男。 幕末の動乱期を、新選組副長として剣に生き、剣に死んだ男、土方歳三の華麗なまでに頑なな生涯。武州石田村の百姓の子“バラガキのトシ”は、生来の喧嘩好きと組織作りの天性によって、浪人や百姓上りの寄せ集めにすぎなかった新選組を、当時最強の人間集団へと作りあげ、自身も思い及ばなかった波紋を日本の歴史に投じてゆく。人気抜群、司馬遼太郎の“幕末もの”の頂点をなす長編。

燃えよ剣〈上巻〉新潮社 レビューより

もうホントね、司馬遼太郎サイコー。ほんと、イイ。心配だったのが古臭い文体は歯ごたえ悪くて噛みにくいのでは、などと思っていたが、全然そんなことはない。馴染む。実に馴染む。シバリョーの文体には日本人の体に流れているであろう五七五のリズムに通ずる歌を詠んでいる様な心地良さがある。そんでもって、間(ま)が絶妙である。決闘のシーンなどはとりわけこの間の使い方がすばらしく、通勤時に読んでようものなら危うく会社のある駅を乗り過ごしかねない、それほどに引き込まれてしまう。いや、会社の駅では着実に降りる。遅刻しちゃうからね。ちゃんと降りるけど、それくらい素敵ってことである。

そんでもって何がイイって、土方がイイのである。この『燃えよ剣』を読んで土方に憧れない男がいるだろうか(反語)。実はまだ読み始めて1週間なので、上巻を7ミリほど読んだところで、話で言えば、試衛館を閉鎖した近藤たちが清河八郎が設立する浪士組に加盟するあたりだ。まだ新撰組はおろか前身となる壬生浪士組すら設立していないのだが、それでも僕はすでに土方歳三という男にゾッコンである。タオルにT.HIZIKATAと入れたい程である。もちろんZの部分は大胆に刻みたい。そんな意気込みである。土方の外見を描写した文にこんなのがある、

しかし頬かぶりよりも、頬かぶりの下に光っている眼がこの男の特徴だった。大きく二重の切れながれの眼で、女たちから「涼しい」とさわがれた。

どうよ!どうなのよ!切れながれの眼だよ。女たちから「涼しい」とさわがれる男だよ。涼しいと形容される男が今この世にいるだろうか(これも反語ね)。妻夫木くん?オダジョー?そんな時代遅れな名前は忘れちまいなさいよ!これからは土方の時代だよ!日本男児がアメポン化する現代にこそ土方が必要なんだよ!ここは一つ、来月号のメンノンの表紙を土方に飾ってほしいと思う。そして参院選の焦点は土方だと思う。ああ、ご飯に土方をかけてかきこみたい。amazon.comで土方をごっそりカートに入れて大人買いしたい。左腕をチューブで縛って血管を浮き上がらせてそこに注射器で吸い込んだ土方を存分にぶち込みたい。そんな意気込みである。

久々につづきを読むのが楽しくて仕方ない。そんな今日この頃。

東京ウォーカーを読めばいいと思うよ

なよなよした不甲斐ない日本男児はびこる今日、新撰組の武士道精神を継承した侍魂の権化と巷では専ら噂の拙者としては、姫君と御出掛けの際には、入園料やら御食事代やらの一切の経費を拙者が払ってあげたいとゆめゆめ存じ上げている。貴重な時間を割いて拙者と遊んでくださる姫君に、これまた貴重な銭までも払って頂くなど失敬千万、愚の骨頂。姫君の貴重かつ限られた銭は、己が美貌に磨をかけるため、高価な化粧品や素敵な衣服の購入に費やせば良いのである。そうして一層美しくなられた出で立ちで、再び拙者と遊んで下さればこれ幸い。そんな所存である。

では現実はどうか。これまで拙者が満額払ってきたのか。否。断じて否である。良くて七三、あわよくば五分五分である。原因は単純明快、拙者の懐が寒いからである。ギリギリの生活を余儀なくされた学生身分の時期には、基本的に御食事代は折半、いわゆる割勘であった。今日はデートだな、と思った時はちょっと多めに払ってみる程度の腑抜け野郎であった。しかし、今宵はデートなのか、ただの飲み会なのか、そんなことを考えるのも面倒なので基本的に割勘というスタンス。全くもってかたじけない。明らかに拙者の方が多めにお酒を嗜んだにもかかわらず割勘という不条理については、我ながら恐縮至極であった。拙者と席を共にした数少ない姫君たちはこの会計方法についてはいささかご立腹であったろうと、いまさらながら猛省している。

しかし学生身分のときはまだマシだった。大学を卒業し、拙者がニートという斬新な身分となったあの忌々しい時期おいては、姫君に奢って頂くという非人ぶりであった。とはいうものの、ニートたるもの人に非ずという世間一般の見解であったので、ならばニートらしく潔く姫君にご馳走になるにやぶさかではなかったと、弁解しておく。

しかし、「働かざるもの食うべからず」「労働こそが美徳」となどという暴力的に押し付けがましい世間の激流に飲み込まれ、図らずも拙者は企業お抱えの従業員という侍の片隅にも置けない身分と成り下がったんだか成り上がったんだかよくわからない今日このごろ。拙者の雇い主である法人からは毎月定額の銭を頂戴する処遇となっては、少しばかり懐のぬくい日々を送らせて頂いている。ならば姫君とお出掛けの際はついに念願の「ここは拙者が払います」の粋な一言が言えると思いきや、あながちそうはいかないのであった。銭さえあれば拙者だって姫君に奢ってあげられるのだと思っていたが、大間違いであった。奢るに事欠かない銭を持って初めて、奢るという行為が洗練された行為であることを知らされる羽目になったのである。

まず、奢る余裕のある殿方というのは、「今度の週末あいてましたら拙者とどこかにいきませんか?」と判断を相手に委ねた誘い方をするタイプではなく、「今度の週末は中華街に行きませう」と着地点に迷いのない誘い方をするタイプだ。自分が言い出したのだから銭はすべて某が持つ。そういう道理だ。また、奢り慣れた殿方は、そうして誘い出した姫君を連れて行くに値する粋な店を幾つか知っているものだ。自分が連れて行きたい店に連れて来たのだから当然銭も某が持つ。そういう道理だ。そしてなにより、終日を通して成熟した武士の立ち振る舞いで万事滞りなくデートを進める。奢りなれた男は驕ることなくそうした紳士的雰囲気を兼ね備えている。剣先に迷いがないのだ。洗練されたシャープな奢りっぷりに、奢られた姫君は自分が奢られたことに気づかないだろう。気づかないからこそ気を煩わすことなく終日ご機嫌に過ごすことができる。優れた剣術の使い手は相手に切られたことを気づかせないと聞く。切られた相手は地に伏して初めて自分が切られたことに気づくのである。そういうことである。

奢るという行為から2億光年くらい遠いところにいた拙者は、そういった洗練を段階的に経験して来ず、奢っても痛くはない程度の銭を得た今日であるが、いかんせん奢り慣れていないというデフレスパイラルにある。姫君に「今度の週末あいてましたら拙者とどこかにいきませんか?」と女々しく誘いだすタイプで、挙句の果てに待ち合わせ時間に遅れて現れては、誘い出したものの素敵な姫君を連れて行くに値する店を知らず右往左往、結局はなの舞を踊りながら冷やっこに舌鼓を打つ安い男で、会計の段でやっとこさ「ここは拙者が払います」とぎこちなく言うも、姫君は明らかに奢り慣れていない拙者を心配してきっちり割勘代金四千円を差し出す始末。なかなか引っ込めない四千円をなんとか得心して納めて頂くべく、「それでは次のお店で飲み直しませう」と明らかに理由になってない理由で二件目に行くことを示唆する男らしからぬまわりくどさ。その二件目の異国情緒漂う小粋なバーを選んだのは姫君の方で、お酒に目がない拙者は気持ちよく酔っ払ってしまっては、あろう事かお店を出て初めて「あれ?拙者二軒目の代金払ってない」と気付くも、「二軒目の代金はお気になさらずに。一軒目ご馳走になりました故」なんて男らしいことを言われて丸め込まれる阿呆ぶりである。まったくもって面目ない。

ムカシノキズ教徒

もっとみんな会話のフシブシで「話し変わりますが、何フェチですか?」と切り出すべきなのだ。好きな音楽とか好きなスポーツの話などしてる場合じゃないのだ。フェチとは宗教である。僕は友達にはまず聞く事にしている。何フェチかと。つまり君は何教徒なのかと。初対面の人間を知る上で、その人の宗教を把握することは、今後交際をする上で欠かせないことである。いわば紳士的マナーである。相手の宗教を知っていれば、イスラム教徒を焼肉に誘う失態や、ジャイナ教徒を釣りに誘う無礼も避けられるというものだ。

フェチズムの世界においては、人それぞれ信仰の対象は異なるが、皆どこかの宗教に属しているものだ。世界的に信者が多いのはアシ教やオシリ教などだが、ミミ教やサコツ教も確実に存在するわけで、昨今の信仰対象は細分化の一途をたどっている。しかし、やはり世界は広い。存在するのである。他人から理解されなくとも、ゴーイングマイフェチを貫く異端児がたまに。フェチズムの対象があまりにもマイナーな過激派。フェチワールドのクー・クッラクス・クラン。今日はそんな一人の男をご紹介したいと思う。

「初対面の女の子と話すとき、相手の目の次にどこを見るか?」この答えでその人がどこの宗派に属しているのか見極めることができる。唇に目が行くクチビル教徒もいれば、胸に視線を落とすオッパイ教徒もいるだろう。しかし、先日出会った男はフェチ研究家の僕が把握するどの教団にも当てはまらない新教徒であった。新種発見。研究家冥利に尽きるというものだ。「女の子のどこをみるか?」この問いに対する彼の回答を聞いた時、あまりの暴投に僕は一瞬バッターボックスを外しかけた。そんな球種見たことない。ここは改めて一席設けるべきではないか。しかし、僕の研究心はどんな握り方をすればそんな玉が投げれるのか早く知りたがった。そう、僕の問いに彼は少し恥ずかしそうにこう答えたのだった。「昔の傷を探しちゃうんだよね」

!?

いるのである。たまに。耳を塞ぎたくなる気持ちはわかる。だが君の宗派と相容れないからといって迫害するは良くない。アシタカが言っていたではないか「共に生きよう」と。ここは一つ共生の道を探っていこうではないか。害の無さそうな教団ではないか。

以下、新教徒に関する調査報告である。

彼の信仰の対象は「昔の傷」であった。女の子の体に刻まれた昔の傷に性的興奮を覚えるムカシノキズ教。とんでもないカルト教団だ。これまで様々なカルト教団に出会ったが、こんな団体聞いたことない。やっぱりカルトは奥が深くて面白い。聞くに、このカルト、昔の傷が多ければ多いほど好きというわけではなく、好きになった女の子の裸に予想だにしない昔の傷があったときのボーナスステージ感覚が絶頂なのだという。彼らにとって、初めて脱がすときのドキドキ感は何事にも変えがたい。脱衣は神との遭遇を前にした神聖な儀式なのだ。

ムカシノキズ教徒は女の子の裸に神(傷跡)を発見すると、エッチの前戯段階で神との交信を行う。その神を執拗に右クリックするという。基本的に神との交信方法はマウスの扱いと同じで、右クリもしくはホイールグリグリの要領で交信を行うのだ。だが彼らの儀式はこれだけで終わらない。

彼らのもう一つの楽しみ儀式はアフターセックスに訪れる。ムカシノキズ教徒のもう一つのお楽しみ儀式とは、エッチの余韻を残したピローステージで、女の子からその傷を負ったエピソードを聞くことである。エッチの後はそそくさとシャワーを浴びにいく他教徒と違い、古傷を優しく撫でながら神のお告げを聞くかのように負傷エピソードに真剣に耳を傾けるムカシノキズ教徒の男を、女の子は優しい人と思うかもしれない。しかしなんてことはない、実のところ彼らの性向がそうさせているだけなのだ。「家に帰るまでが遠足」を性生活で実践している教団なのだ。

そうして、傷の状態と負傷エピソードによって最終的に「お宝」の良し悪しが決まる。彼にこれまで遭遇したお宝の鑑定結果を価格順に聞いてみた。安いモノだと「蚊に刺された跡」や「消えないニキビの跡」。もう少し値段が上がると「BCGの跡」や「2〜3針程度の縫い跡」など。レアモノほど負傷エピソードは個人的なストーリーに満ちていて、その傷がその子の歴史を反映している、そこがいいのだという。彼がこれまでの人生で遭遇した国宝級のお宝は、三つ。お宝遭遇時には、予期せぬ室町時代の古伊万里の発見に、思わず「いい仕事してますね〜」と、脊髄がウズクほど感動したという。

第三位「リストバンドを外した左手のリストカット」。リストバンドで隠していたために一気に値が上がった演出つきの一品であった。第二位「リストバンドを外した左手のリストカット(アディダスライン)」。3本のリスカ跡に人生に対する積極的消極性を垣間見たスポーティーな一品であった。第一位「こればっかりは言えない」。彼は教えてくれなかった。神との遭遇は簡単に口外してはならないという教団の教えなのかもしれない。もしくは迫害を受けてきた少数派宗教のせめてもの反骨心なのかもしれない。

君は思うかもしれない。手っ取り早くこっちから傷つけちゃえばいいじゃん、と。しかし、それでは全くダメなのだ。あくまで自分の知らないところで生まれた傷が対象であり、その傷のエピソードを女の子の口から聞くのがいいのだという。彼女が外での飲み会などで酔っ払って持ち帰ってきたきた傷を、彼は「お土産」と呼んでいたことからもその辺のこだわりが伺える。

以上がムカシノキズ教に関する今回の調査結果である。新たな新教発見の折には追って報告したい。