ムカシノキズ教徒

もっとみんな会話のフシブシで「話し変わりますが、何フェチですか?」と切り出すべきなのだ。好きな音楽とか好きなスポーツの話などしてる場合じゃないのだ。フェチとは宗教である。僕は友達にはまず聞く事にしている。何フェチかと。つまり君は何教徒なのかと。初対面の人間を知る上で、その人の宗教を把握することは、今後交際をする上で欠かせないことである。いわば紳士的マナーである。相手の宗教を知っていれば、イスラム教徒を焼肉に誘う失態や、ジャイナ教徒を釣りに誘う無礼も避けられるというものだ。

フェチズムの世界においては、人それぞれ信仰の対象は異なるが、皆どこかの宗教に属しているものだ。世界的に信者が多いのはアシ教やオシリ教などだが、ミミ教やサコツ教も確実に存在するわけで、昨今の信仰対象は細分化の一途をたどっている。しかし、やはり世界は広い。存在するのである。他人から理解されなくとも、ゴーイングマイフェチを貫く異端児がたまに。フェチズムの対象があまりにもマイナーな過激派。フェチワールドのクー・クッラクス・クラン。今日はそんな一人の男をご紹介したいと思う。

「初対面の女の子と話すとき、相手の目の次にどこを見るか?」この答えでその人がどこの宗派に属しているのか見極めることができる。唇に目が行くクチビル教徒もいれば、胸に視線を落とすオッパイ教徒もいるだろう。しかし、先日出会った男はフェチ研究家の僕が把握するどの教団にも当てはまらない新教徒であった。新種発見。研究家冥利に尽きるというものだ。「女の子のどこをみるか?」この問いに対する彼の回答を聞いた時、あまりの暴投に僕は一瞬バッターボックスを外しかけた。そんな球種見たことない。ここは改めて一席設けるべきではないか。しかし、僕の研究心はどんな握り方をすればそんな玉が投げれるのか早く知りたがった。そう、僕の問いに彼は少し恥ずかしそうにこう答えたのだった。「昔の傷を探しちゃうんだよね」

!?

いるのである。たまに。耳を塞ぎたくなる気持ちはわかる。だが君の宗派と相容れないからといって迫害するは良くない。アシタカが言っていたではないか「共に生きよう」と。ここは一つ共生の道を探っていこうではないか。害の無さそうな教団ではないか。

以下、新教徒に関する調査報告である。

彼の信仰の対象は「昔の傷」であった。女の子の体に刻まれた昔の傷に性的興奮を覚えるムカシノキズ教。とんでもないカルト教団だ。これまで様々なカルト教団に出会ったが、こんな団体聞いたことない。やっぱりカルトは奥が深くて面白い。聞くに、このカルト、昔の傷が多ければ多いほど好きというわけではなく、好きになった女の子の裸に予想だにしない昔の傷があったときのボーナスステージ感覚が絶頂なのだという。彼らにとって、初めて脱がすときのドキドキ感は何事にも変えがたい。脱衣は神との遭遇を前にした神聖な儀式なのだ。

ムカシノキズ教徒は女の子の裸に神(傷跡)を発見すると、エッチの前戯段階で神との交信を行う。その神を執拗に右クリックするという。基本的に神との交信方法はマウスの扱いと同じで、右クリもしくはホイールグリグリの要領で交信を行うのだ。だが彼らの儀式はこれだけで終わらない。

彼らのもう一つの楽しみ儀式はアフターセックスに訪れる。ムカシノキズ教徒のもう一つのお楽しみ儀式とは、エッチの余韻を残したピローステージで、女の子からその傷を負ったエピソードを聞くことである。エッチの後はそそくさとシャワーを浴びにいく他教徒と違い、古傷を優しく撫でながら神のお告げを聞くかのように負傷エピソードに真剣に耳を傾けるムカシノキズ教徒の男を、女の子は優しい人と思うかもしれない。しかしなんてことはない、実のところ彼らの性向がそうさせているだけなのだ。「家に帰るまでが遠足」を性生活で実践している教団なのだ。

そうして、傷の状態と負傷エピソードによって最終的に「お宝」の良し悪しが決まる。彼にこれまで遭遇したお宝の鑑定結果を価格順に聞いてみた。安いモノだと「蚊に刺された跡」や「消えないニキビの跡」。もう少し値段が上がると「BCGの跡」や「2〜3針程度の縫い跡」など。レアモノほど負傷エピソードは個人的なストーリーに満ちていて、その傷がその子の歴史を反映している、そこがいいのだという。彼がこれまでの人生で遭遇した国宝級のお宝は、三つ。お宝遭遇時には、予期せぬ室町時代古伊万里の発見に、思わず「いい仕事してますね〜」と、脊髄がウズクほど感動したという。

第三位「リストバンドを外した左手のリストカット」。リストバンドで隠していたために一気に値が上がった演出つきの一品であった。第二位「リストバンドを外した左手のリストカットアディダスライン)」。3本のリスカ跡に人生に対する積極的消極性を垣間見たスポーティーな一品であった。第一位「こればっかりは言えない」。彼は教えてくれなかった。神との遭遇は簡単に口外してはならないという教団の教えなのかもしれない。もしくは迫害を受けてきた少数派宗教のせめてもの反骨心なのかもしれない。

君は思うかもしれない。手っ取り早くこっちから傷つけちゃえばいいじゃん、と。しかし、それでは全くダメなのだ。あくまで自分の知らないところで生まれた傷が対象であり、その傷のエピソードを女の子の口から聞くのがいいのだという。彼女が外での飲み会などで酔っ払って持ち帰ってきたきた傷を、彼は「お土産」と呼んでいたことからもその辺のこだわりが伺える。

以上がムカシノキズ教に関する今回の調査結果である。新たな新教発見の折には追って報告したい。